高橋惠子と河村季里の失踪事件の理由や真相は?波乱万丈の半生まとめ!

ドラマや映画、舞台など長年活躍されているベテラン女優の高橋惠子さん。

エレガントで柔和な雰囲気ですが、デビュー以降の若い頃はかなりお騒がせでスキャンダルが続いた女優さんだったそうです。

中でも「愛の逃避行」と呼ばれる若い頃の失踪事件や、結婚までの波乱万丈な半生について迫ってみました。

高橋惠子(関根恵子)プロフィール

高橋惠子

  • 名前:高橋 惠子(たかはし けいこ)
  • 旧芸名:関根 恵子(旧姓)
  • 生年月日:1955年1月22日(64歳)
  • 出身地:北海道川上郡標茶町
  • 身長:162㎝
  • 血液型:AB型
  • 職業:女優
  • 活動期間:1970年~
  • 所属:ブロウアップ

北海道生まれで実家は牧場を営んでいたという高橋惠子さん。

牧場経営が行き詰った家庭の事情から、道内を転々とする時期を経て、小学6年生の時に東京の府中市へ移り住むことになりました。

そして14歳の時に大映のスチールカメラマンにスカウトされたのが芸能界入りのきっかけとなります。

関根恵子

デビュー当時の写真、清楚でカワイイですよね。これならスカウトされるのもうなづけます。

15歳で「関根恵子」としてデビュー

子供の頃から転校が多く、無口で大人しい性格だった高橋惠子さんは、スカウトされカメラテストを受けた時に撮影所の雰囲気にすごく安心感を覚えたそうです。

転校続きでどこにいても馴染めなかった高橋さんは、やっと自分の居場所を見つけたと感じたのでした。

そして中学卒業までの1年間、大映の研修所で演技の修行をして、高校へは進学せずそのまま大映へ入社。

1970年の15歳の時、映画『高校生ブルース』で主役を射止め、本名の「関根恵子」でデビューします。

当初主役だった女優さんが怪我で降板することになったため、急遽高橋惠子さんが代役に抜擢されたのでした。

この作品では女子高生が妊娠してしまう設定で、さらにヌードシーンもあるという過激な内容でしたが、15歳とは思えないほどの大胆な体当たりの演技でセンセーショナルなデビューとなりました。

同年出演した『おさな妻』ではゴールデンアロー賞新人賞を受賞するなど、話題性だけでなく演技力も評価されました。

しかし世間では出演作のイメージから奔放・不良少女などのイメージが付き、本来の自分の性格とのギャップから次第に悩むようになったそうです。

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自殺未遂騒動で2年間の女優休業へ

1977年、22歳の時に女優業のストレスがピークに達し、ついに睡眠薬を大量に飲んで自殺未遂を起こしてしまいます。

騒動の後、高橋惠子さんは女優を休業して岐阜県の山村でひっそりと田舎暮らしをしていましたが、この時恋人の劇作家で小説家の河村季里(かわむら きり)さんと同棲していたことが後に判明します。

河村さんとはデビュー後まもなく雑誌の対談で出会い、交際に発展していったようです。

約2年間の休業ののち、次第に女優業への意欲が戻ってきた高橋惠子さんは復帰の決意をします。

舞台をドタキャンしてタイへ逃避行

1979年に女優復帰を表明した高橋惠子さん。すぐに舞台公演『ドラキュラ』に出演が決まり、さあこれからという時に再び騒ぎを起こします。

7月21日が初日だった舞台の前日に突如失踪!

休業期間が長かったことから演技に対する恐怖心に苛まれ、タイのバンコクへ河村季里さんと逃避行してしまうのです。

舞台初日の前日にドタキャンとはかなりのお騒がせぶりですね!

舞台の関係者や役者さんたちの衝撃はいかばかりかと思いますが、この時は市毛良枝さんが代役に抜擢され、なんと1日の稽古で見事代役を務めたといいます。

当時を振り返って高橋惠子さんは、「若気の至りというか愛の逃避行だった」と語っています。

舞台をすっぽかしてしまい、交際していた河村季里(かわむら きり)さんに連れられていくような形でひとまずタイのバンコクへ。

もう戻らない、死に場所を探すつもりで海外を転々とします。

インタビューでは精神的にもかなり追い詰められた様子が語られていますね。

毎日、舞台の夢を見ました。つらかったですよ。

ストレスで腎盂炎になりましたが、具合が悪いと舞台のことを忘れられるので、精神的には楽でした。

引用:https://www.sanspo.com/geino/news/20171006/geo17100611000013-n1.html

タイからシンガポール、インドネシア、トルコ、ギリシャ、マレーシアなど各地を周り、結局4ヶ月近く海外を放浪していました。

帰国後ベリーショートで謝罪会見

もう戻らないつもりで海外放浪していた高橋惠子さんと河村季里さん。

トルコで占術の気学ができる日本人出会い、気持ちが落ち着いたところでその人の勧めで日本への帰国日を決めたのでした。

とにかく舞台をドタキャンして迷惑をかけたことを謝罪しようという思いで、約4ヶ月後の1979年11月初旬に帰国。

かなりのベリーショートで単独会見に挑んだ高橋惠子さん。

まるで髪を切って謝罪のように見えますが、舞台の役作りで金髪に染めていたのをバッサリ切っていたので、なんだか凄みさえ感じますね。

この時には「詫びるところは詫びてけじめをつけよう」と覚悟を決めていたと言います。

当時は事務所に所属していなかったので、全て一人で仕切って謝罪会見を開きました。

そして舞台関係者に損害賠償をして、自ら1年間謹慎したのでした。

高橋惠子と河村季里のその後の交際は?

高橋惠子さんの「愛の逃避行」から帰国後、まもなく河村季里さんとは破局しています。

岐阜での山村暮らしから海外への駆け落ちとも言える逃避行・・・。

かなり濃い時間を過ごしたお二人ですが、破局の理由は明かされていません。

作家である河村季里さんは、この逃避行の体験を元に小説「青春の巡礼(1980年に)」を出版。

その後は作家活動はせず、株式会社K&Bパブリッシャーズを設立。

現在は海外旅行の案内書を編集しているそうです。

高橋伴明との結婚が契機に?

1年間の謹慎後、1980年1月に活動を再開した高橋惠子さん。

迷惑をかけた人々に少しでも恩返しができるようにと、もらった仕事は断らずに全て受けていったそうです。

そんな中、1982年27歳の時に出演した映画『TATTOO<刺青>あり』で映画監督の高橋伴明さんと出会い、その年にスピード結婚。

「どんな逆境でもこの人とだったら一緒にやっていけるなって気持ち」にさせてくれた出会いだったそうです。

芸名もそれまでの「関根恵子」のイメージを払拭するために「高橋惠子」に改名。

「関根恵子は死んだ」と思って心機一転したのでした。

その後、女優業の方も大人の落ち着きある女性の役柄を数多くこなされていますね。

高橋惠子さんと夫の高橋伴明さんとの間には一男一女をもうけています。

長男は一般人のため情報はありませんが、長女の秋山佑奈さん(1983年5月25日生まれ)は女優経験もあり本業ではドッグトレーナー。

高橋惠子と秋山佑奈

現在は高橋惠子さんのマネージャーも務めています。

秋山佑奈さんは既に結婚されていて娘さんが2人いるので、高橋惠子さんは孫がいるお祖母さんなのですね!

今も若々しくて、とてもそうは見えませんが、現在は家族4世代8人で東京都国立市に在住しているとのことです。

波乱万丈な若い頃から一転、結婚後は幸せな大家族となった女優の高橋惠子さん。今後の活躍にも注目です!

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