2018年10月29日放送の『激レアさんスペシャル』では「お、値段以上 ニトリ〜♪」でお馴染みのニトリ会長・似鳥昭雄さんが出演されます。
あらゆる困難を全てとんちで解決して、誰もが知るあの「ニトリ」の創業者になった人としてピンチをチャンスに変える仰天エピソードを披露してくれるそうです。
似鳥昭雄さんは数年前に会長就任後、なぜか息子ではなく別の方を社長に据えて経営されてるんですね。
ぶっ飛んでるという噂の経歴とご家族についても調べてみました。
似鳥昭雄プロフィール
- 名前:似鳥昭雄(にたとり あきお)
- 生年月日:1944年3月5日(74歳)
- 出身:樺太生まれ、北海道札幌市育ち
- 高校:北海道工業高等学校卒業
- 大学:札幌短期大学卒業、北海学園大学経済学部編入
大手家具・インテリア雑貨のチェーン店で有名なニトリの会長である似鳥昭雄さん。
本名は「にたとり」さんと読むんですね。
よく「にとり」さんに間違われることから、社名は「ニトリ」にしたんだそうです。
似鳥昭雄の経歴・貧乏育ちで頭も悪かった?
似鳥昭雄さんが生まれたのは1944年。まさに戦争で日本中が混沌としていた時代ですね。
生まれた地は樺太で、終戦後は両親・弟妹と一家で札幌に引き揚げて暮らしていたそうです。
当時は終戦後で何も無い時代。かなりの貧乏暮らしで窓から雪が吹き込み、部屋に雪が積もるような家に住んでいました。
父親は土木関係の会社を経営していたものの経営不振で生活は苦しく、母親が「ヤミ米」を売り歩いて生計を立てていました。
母親がヤミ米を売っているせいで同級生たちにはいじめられ、配達を手伝っていた自転車ごと川に突き落とされたこともあったとか。
また両親の躾も厳しく、今では虐待と言われる程しょっちゅう殴られていたそうです。
さらに似鳥さんは学校の成績も振るわずいつも通知表は1か2ばかりだったそうです。
ニトリの会社をここまで大きくした人とは思えないですね!
ちょっと壮絶すぎて想像が追いつきませんが、この時代は大人も子供も食べるためにに必死だったのだと思います。
似鳥昭雄は裏口入学?
似鳥昭雄さんは学校の成績が悪かったため、高校入試では受けた学校全部に落ちてしまいました。
この後とんでもない話になるのですが、この時に配達していた米の配達先のお得意さんの友達が、似鳥さんが落ちた高校の校長先生でした。
似鳥さんは米1俵を夜遅くその校長先生の家に届け、無理やり受け取ってもらい(笑)無事に入学できたという・・・。
それってぶっちゃけ裏口入学じゃん?
そんなこと暴露しちゃって大丈夫なんでしょうか?(笑)
このエピソードは後日、母親のみつ子さんが虐待も裏口入学もさせてない!と反論したそうですが真相は如何に?
似鳥さんが頭が良くなかったというのは事実だったようで、大学受験も4年制の大学は全て不合格。
札幌短期大学に進んだ後、北海学園大学経済学部に編入しています。
大学卒業後は広告会社に就職したものの、仕事が自分に合わないとパチンコに行ったりしてサボっていました。そんなわけではもちろん仕事が全然獲れないので半年でクビに・・・。
そして父親の会社に入ったものの、今度は火事を起こしてしまい辞めることに!
似鳥さん、学生時代や若い頃はかなりいろいろやらかしてるんですね!
23歳で「ニトリ」創業
このあと1967年に、23歳で「ニトリ」の元となる家具店の経営を札幌で始めます。
理由は「近所に家具店が無く、儲かりそうだったから」という気軽な発想でした。
その名も「似鳥家具卸センター 北支店」。
似鳥さん曰く、“卸“ってつくと安く感じるだろう。“センター“だと規模が大きそう。“北支店“ってあると本店は遠くにあると匂わせられる。という浅知恵を駆使して(本人談)名付けたのだそうです。
ちょっとズルいですが、アイディア勝負なやり方はこの頃から片鱗があったんですね。
しかし最初からうまくいったわけではなく、かなり経営が苦しい状態だったそうです。
似鳥昭雄の嫁・百百代夫人がすごい
似鳥昭雄さんは家具屋を始めた翌年の1968年に、妻の百百代(ももよ)さんとお見合い結婚をしました。
似鳥さんの母親の友人の伝手で紹介された女性でした。「愛嬌があって健康的」とすぐに好意を持ったのですが「丈夫で長持ちする感じが良かった(本人談)」という照れ隠しなのか、奥さんが聞いたら怒られそうな余計なコメントも。
妻の百百代さんはとてもポジティブな人で、短所もすぐに長所に置き換える達人だそうです。
「家が貧乏で・・・」
→「あの松下幸之助と同じ境遇!」
「忘れ物がひどくって・・・」
→「あの本田宗一郎にそっくりじゃない!」
と捉え方がとても前向きな人なのだそうです。こんなにポジティブな人が隣に居たら、落ち込んでいる暇はなさそうですね。
百百代さんが公私共に支えてきたおかげで、似鳥昭雄さんの今日があるといっても過言ではなさそうです。
家具店を始めた時も接客が苦手で経営も上手く行ってなかったという似鳥さん。
結婚後は接客を百百代さんに任せて、買い付けや商品開発に専念できるようになったということですから百百代さんに感謝ですね。
ニトリの転機はアメリカ視察
結婚後も経営はすべて順調だったわけではなく、また苦しい時期が数年続いたそうです。
そこで転機になったのは1972年、似鳥昭雄さんが27才の時でした。
近くに大きな競合店が出来たせいで経営がどうにも行き詰まり、もう藁にもすがる思いでロサンゼルスの研修セミナーに参加したのがきっかけでした。
似鳥さんは現地で見たアメリカ人の豊かな生活に驚愕!
家具のセンスも質も良いのに日本の1/3の価格で買えるのを目の当たりにして、アメリカの豊かなライフスタイルを日本で具現化する家具のチェーンストアつくりたいと一念発起。
ここから株式会社ニトリを設立して快進撃が始まったそうです。
ピンチがチャンス!仰天エピソード
高校の入学といい、ピンチでもあの手この手でなんとかしてきた似鳥昭雄さん。
有名なエピソードに「店が潰れた事件」があります。
経営難ではなく文字通り店舗自体が潰れたという珍事件。
1975年に低コストでドーム型の店舗を札幌に出店することになったニトリ。
オープン前夜に雪が降り、ドームに積もった雪の重みで店がペシャンコに!
10開店なのに雪を掘り起こす作業から始めなければなりませんでした。掘り起こしても展示していた家具なぎ倒されて破損しているものも・・・。
12時頃にはドームも膨らませて店の体裁はなんとか保ちましたが商品がこれでは話になりません。
普通はここで諦めて「今日のところは・・・」と店を閉めるのでしょうが似鳥昭雄さんは違いました。
じゃあ、しょうがない、となかばやけっぱちで
「オープン記念即売会!傷物半端物大会」
と称して激安価格で売ったところ大繁盛!
あっという間に売り切れて、追加で商品を運び込むまでに大賑わいになったのでした。
すごい・・・。転んでもタダでは起きない道産子魂?ピンチがチャンスに変える発想の転換が気持ちいいですね。
似鳥昭雄の息子と娘について
似鳥さんには息子さんと娘さんがいらっしゃいます。
一代で会社を創業した人は家族経営が多く、子供に会社を継がせるパターンが多いのですが似鳥昭雄さんの場合は違ったようです。
今はご自分は会長に就き、社長は白井俊之さんを任命。
後を任せられる逸材として、血縁関係の無い実力だけを重視して選ばれたそうです。
息子さんはというと、ニトリに入社せず大手印刷会社に就職。
娘さんはニトリに勤務されています。
息子さんと確執でもあるのかなと思いましたが違ったようで、似鳥さんは男の子供を入社させると、後継者と見られて後に派閥が出来てしまうことを良しとせず、最初から息子を入社させることはしませんでした。
それに、娘さんもニトリに勤務とはいえ、もし社内の男性と結婚したら旦那さんには会社を辞めてもらうと公言しているそうです。
かなり確固たるポリシーがあるんですね。
家族経営の某家具店のお家騒動などを見ていると、血縁関係のしがらみで経営悪化などはよくありますし、会社や従業員の信頼を第一にして最初から息子に後を継がせないと名言していたことは英断だったと思います。
まとめ
似鳥昭雄さんの経歴を見ていると、学業の成績が悪かったばかりかかなりハチャメチャなやり方で進んでこられた人生です。
途中で悪い道に進んでもおかしくないような経験の後に、くじけること無くアイディアを駆使して切り抜けてきた似鳥昭雄さん。
今では「ニトリ」で資産額5,136億円、推定年収1億2千万円といわれるほどの実業家です。
会長職となった今でも率先して現場に赴き商品開発に取り組んでるそうですから、今後もどんな活躍をされるか注目ですね