高田賢三のパートナーは男性だった!パリの豪邸や破産の理由!現在は?

2018年9月28日放送の「爆報!THEフライデー」に、世界的に有名なファッションデザイナーの高田賢三さんが登場します。

80〜90年代にかけて「KENZO」ブランドで一世を風靡した高田賢三さんが、後には挫折や失敗もあり、破産した過去もあったとか。

彼を支えてきたのはどんなパートナー?現在はどうしているのか?気になるところを調査してみました。

高田賢三プロフィール

高田賢三

  • 名前:高田賢三(たかだ けんぞう)
  • 生年月日:1939年2月27日
  • 出身地:兵庫県神崎郡
  • 学歴:神戸市外国語大学を中退、文化服装学院師範科卒業
  • 職業:ファッションデザイナー

80年代から立ち上げたファッションブランド「KENZO(ケンゾー)」で時代の寵児といわれてきた高田賢三さん。

姫路市にあった実家は待合旅館を経営していました。

家族構成はは両親と兄、姉、弟、妹の7人家族。

ファッションに興味を持ったきっかけは、お姉さんがが裁縫の学校に通っていたのを見ていたからでしたが、当時は男子が入学できる洋裁学校がなかったため、一度は神戸市外国語大学へ進学します。

その後文化服装学院が男子生徒の募集を始めたことを知り、家族に反対されながらも大学を中退して上京、文化服装学院師範科を卒業しました。

同級生にはコシノジュンコ、松田光弘、金子功など後に有名になったデザイナーが多数いたため、「花の9期生」と言われているそうです。

コシノジュンコさんと同期というだけでも、かなり個性的な面々が揃っていたようですね。

高田さんは在学中に新人デザイナーの登竜門「装苑賞」も受賞しています。

卒業後は銀座三愛勤務などの経験を経て、1965年にファッションの本場フランスへ渡り、1970年に独立して現在のケンゾーのブティックをオープンさせました。

パリに初出店したこのブティック「ジャングル・ジャップ」が話題になり一気に時代の寵児となります。

作品があのファッション雑誌「ELLE」の表紙を飾ったり、パリコレの常連となり世界的ファッションブランドの1つに成長を遂げています。

高田賢三のパートナーは男性だった

高田賢三さんをネットで調べると「結婚」や「子供がいる」などの噂が出てきますが、実際のところ高田さんは結婚しておらず子供もいない独身で、公私を共にしてきた男性のパートナーがいました。

3~40年前でパートナーが男性というとかなり珍しく社会的にも認められない風潮がありましたが、ファッション界ではイブ・サンローランや、カール・ラガーフェルドなども、男性パートナーがいることを公表しており、珍しいことでも無いようですね。

高田さんのパートナーはグザビエ・ドゥ・カステラさんという方で、なんとルイ14世から伯爵の称号をもらったという貴族なんだそうです。

2人の出会いは画家・パブロ・ピカソの娘でパロマ・ピカソの誕生日の夕食会。

カール・ラガーフェルドのパートナーだった男性が2人を引き合わせたのが最初でした。

貴族であるグザビエさんはお金持ちだっただけではなく、建築を学んでいて、日本建築や思想についても理解が深く、高田さんとすぐに意気投合したのでした。

2人は公私ともにパートナーで、グザビエさんは「ケンゾー」のブランド立ち上げから資金面も含めて援助されたそう。

また、パリのバスティーユに25億円とも言われる日本建築を模した豪邸を建て、89年から20年間過ごしたそうです。

高田賢三の豪邸

引用:http://www.pavone-style.com/leisure/text110120_01.php

さすが貴族で建築家なだけあって、かける金額が違いますね!

グザビエさんの写真は見つかりませんでしたが、クリント・イーストウッド似のダンディーな紳士だったそうです。

そんなグザビエさんは残念ながら1990年に病気で亡くなられたそうです。

Sponsored Link

高田賢三が破産していた過去と現在

高田賢三さんのパートナーのグザビエさんが1990年に亡くなったころ、トラブルが重なりました。

共同経営者のボーフュメ氏との間にあった確執が悪化、それに高田さんの右腕だったパタンナーの近藤淳子さんが脳梗塞で倒れてしまいました。

ビジネスでもプライベートでも信頼の置ける人々を一気に失い、続いて実家の母親も亡くなるという不幸が続き、高田さんの精神的ダメージはかなりのものだったと推測できます。

ブランド経営も傾き始めました。1993年には経営状態も上手くいかなくなり、とうとう「「KENZO(ケンゾー)」ブランドをLVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)に売却。

失意の高田さんは一時、デザイナーとして第一線を退き充電期間を取りましたが、2003年に独立系デザイナーとして復活。

2004年にはアテネオリンピックの日本代表ユニフォームのデザインを担当。

しかし同年に立ち上げたブランド「五感工房」は上手く行かず、資金繰りが悪化して2007年に会社は事実上の破たんに追い込まれます。

そしてグザビエさんと一緒に作った思い出のバスチーユの豪邸などの財産も手放すことになってしまいました。

なんだか波乱万丈の人生ですね。こんになにも浮き沈みが激しい目に会いながらも、高田賢三さんは創作活動を続けました。

高田賢三は現在もデザイナー

近年では2016年にセブン&アイホールディングスと新たなプロジェクトに参加、傘下のそごう・西武とイトーヨーカドーのプライベートブランド「セットプルミエ」のデザインを手がけるなど、精力的に活動しています。

それにしても会社が破産するなど、こんなに波乱万丈な人生を送りながらも何度も復活している高田さん。その秘密は高田さんの人柄にあるようです。

同じファッションデザイナーで後輩にあたる山本耀司さん(ヨージ・ヤマモト)がインタビューで、

「まったく偉ぶったところがなく、謙虚で純粋だったということ。

とってもいい人なんですよ。自分の弱点もサラッと人に見せることができる」

「僕は賢三さんの同業者であり、しかも後輩なんですよ。それなのに、パリですでに大成功している先輩に対して、『この人のために自分ができることはなんだろう』となぜか考えてしまう」

「これまで色々なフランス人と話してきましたが、みんな賢三さんのことが大好きなんです。

あの酔っ払い方が面白いのよ、とか、明るくて、ちゃめっけがあってかわいいのとか」

と、ファッション界で有名になっても、謙虚で誰にでも好かれる人柄を絶賛しています。

やはり困難があってもひとつの道を長く続けられたのには、周りが助けたくなるような謙虚でピュアな人柄に拠るところが大きかったのではないでしょうか。

 

現在も高田さんはフランス在住でパリのエッフェル塔が見える高級アパルトマンに住んでおり、最近では日本と行き来する回数も増えたとか。

今年で77歳の高田賢三さん、取材では元気でいられるうちに旅行をしたり絵を描いたり、自分の好きなことに時間を使いたいと語っているそうです。

Sponsored Link