“神”と呼ばれるスーパーボランティアの尾畠春夫さんが9/23放送の『情熱大陸』で特集されます。
今年8月に山口県で行方不明になっていた2歳の男児を、捜索に加わってから約30分で見つけ出した凄腕に、世間からボランティアの神と賞賛され、たいへん話題になりました。
尾畠さんは全国各地の被災地で様々なボランティア活動を長年続けてこられ、その経歴もかなり長いものと聞いています。
尾畠さんがそんな生き方を選んだのはいつから、そして何か訳があるのでしょうか?
尾畠さんの家族はどんな人たちなのか?気になるところを調べてみました。
尾畠春夫のプロフィールと経歴について
尾畠春夫(おばたはるお)さんは1939年生まれですが、調べたところ誕生日は不明で、今年78か79歳になります。
現在は、大分県速見郡日出町在住でボランティアを主体に活動されています。
尾畠さんは大分県国東半島の貧しい家庭に生まれ、父親は下駄職人でした。
当時は履き物がゴム製品に変わる頃で、父親の仕事はとても順調では無かったようです。
母親は尾畠さんが小学校5年生の時に41歳で亡くなりました。早くに妻を亡くした父親は、仕事の不調と何人もの子供を抱えたストレスからヤケ酒に走るようになってしまいました。
7人兄弟の4番目だった尾畠さんは「大飯喰らいだから」という理由で一人だけ近所の農家に奉公に出されてしまいます。
一人だけよそに出されるというのもショックですが、それでも尾畠さんは腐らずに「世の中なるようにしかならない。やるだけやってやろう」と心に決め、奉公先の旦那さんや家族を親だと思い、何でも言うことを聞いて奉公しました。この時小学校5年生だったそうです。
その後も中学校へは4か月しか通えないなど厳しい生活環境でしたが、振り返るとこの時の経験が宝になっていると実感しているそうです。
1955年に中学を卒業すると、働きたいと思っていた尾畠さんに、お姉さんが「あんたは元気がいいから魚屋になりなさい」と別府の鮮魚店を紹介されて、鮮魚店の小僧になります。
別府に向かう当日、父から10円札を3枚持たれ、珍しく大盤振る舞いだなと喜んだもののそれが片道切符代しかないことに気づき、実家にもう帰ることができないのだと悟ったそうです。なんだか切ない話ですが、もしかしたら尾畠さんが兄弟のなかでも人一倍バイタリティが強かったので父親もこの子なら大丈夫と突き放したのかもしれませんね。
そして尾畠さんは別府の鮮魚店で3年間修業。下関市の鮮魚店ではフグの勉強を3年かけて習得。その後、神戸市の鮮魚店で関西流の魚のさばき方やコミュニケーション術を4年間学びましたが、給料が安く貯金ができなかったといいます。
そこで尾畠さん開業資金を作るために一念発起して上京。大田区の鳶・土木の会社に「俺には夢があります。3年間どんな仕事でもするので働かせてください」と頼み込み、無事働き口を見つけました。
この時の鳶と土木工事の経験が、現在のボランティア活動に役立っているのだそうです。
志があって一生懸命働く尾畠さんは信頼が厚かったのでしょう、残って頭になれと熱心に誘われたそうです。
それでも尾畠さんは1963年に大分に戻り、別府市内に念願の鮮魚店「魚春」を開業することができました。
このとき28歳。同時にこの年、結婚もしています。
ボランティア活動開始のきっかけ
そんな尾畠さんは身体を動かすのが好きで、40歳から趣味で登山をはじめます。45歳の時には北アルプス55山を単独縦走!
2003年に60歳になった頃から、近隣の由布岳登山道の整備などを始めたのがボランティアとなるきっかけだったそうです。
整備といっても月に7~8回ほど、40㎏もの材料を一人で担いで案内板の設置などをしていたそうです。
すごい体力、胆力ですよね。
65歳の時には地元で人気店だった「魚春」を辞め、惜しまれながらもお店も閉店。
尾畠さんは、お店を閉店めた歳に、
「学歴も何もない自分がここまでやってこられた。これからは社会に恩返しがしたい」
という思いでボランティア活動一筋の生活を決意したそうです。
本格的にボランティア活動を始めたのは、魚春閉店後の2004年・新潟県中越地震から。
この活動を皮切りに。2011年3月の東日本大震災被災では南三陸町で、がれきの中に埋もれた思い出の写真などを拾い集める「思い出探し隊」の隊長として約500日間活動。
この頃から若いボランティアから「師匠」と慕われ、尾畠さんのプロフェッショナルな活動姿勢から「神」のようだといわれるようになりました。
現在もそうですが、尾畠さんは大分と宮城を自分で車を運転し往復していたそうです。
しかも携帯電話もカーナビ使わずに移動してるとか!すごいですよね。
また、このときから、被災地東北3県の仮設住宅がすべて取り除かれるまではと好きだったお酒をきっぱり止めました。
2015年にあった東日本豪雨の災害や、2016年の熊本地震の時も車中泊をして作業に参加。
捜索ボランティアも従事
世間の記憶にも新しいところですが、災害以外にも行方不明者の捜索ボランティアもしていて、今年2018年8月の山口県の2歳の男児捜索に参加し、発見者として一躍時の人となりましたよね。
https://twitter.com/nokinomi1/status/1029586317061935104
これは2016年12月、大分佐伯市で2歳の女児が行方不明になった時にも捜索活動に参加した経験が役に立ったと語っていました。とにかく「人に、世の中に、恩返ししたい」が口癖の尾畠さん。本当に神様のような存在です。
尾畠春夫の家族は?
尾畠さんには、奥さんと48歳の息子さんがいて公務員で市役所に勤めており、45歳の娘さんと孫娘1人で孫息子が4人います。
奥さんの名前まではわかりませんでしたが、尾畠さんより3つ年下で、出会いは別府の鮮魚店で働いていた時の鮮魚店のお向かいの店のお嬢さんでした。
その時から「いつかあの子と結婚したい」と思っていたそうですから、もしかして尾畠さんは初恋の人と結婚できたのかもしれませんね。
ところで面白いというか不思議なエピソードですが、奥さんは5年前から自宅にいないのだそう。
尾畠さんは「カミさんは、いまは旅に出ている。一人旅です。「自由にしたい」って。5年前に出かけて…、まだ帰ってない」と取材でコメント。
何かトラブルとかそういうわけではなさそうで、お互いに自由な老後を満喫しているのですね。
奥さんも自宅の鍵は持っていて、いつでも帰れる状態にしているのだとか。
尾畠春夫の名言と生き様
『朝は必ず来るよ』
この言葉がスーパーボランティア・尾畑春夫さんの座右の銘なのだそう。
尾畠さんの行動の基本にはとにかく「人に、世の中に、恩返ししたい」という思いが元になっています。
ボランティアの活動費もすべて自分の月約5万5000円の年金から捻出。
貯金はほどんど無くゼロに近いくらいだとか。しかし、
「商売人ですからカネには執着している。それは今も同じ」けれど「ないものは追っても仕方ない。私は逃げるものは追いかけない主義です。そのときの状況に応じた生活をしているだけ。」
と潔い考え方をしています。
ボランティア活動をする時にも尾畠さんなりのルールがあり、
「対価、物品、飲食、これは絶対、頂かない。敷居をまたいで家の中に入ることもボランティアとして失格だと思っている。私はそれで良いと思うんですよ。人がどうしようと関係ない。尾畠春夫は自分なりのやり方がある。」
と語っています。
実際に、今年の8月の山口県の2歳の男児捜索が終わったあと、シャワーを使ってくださいと進められても「ボランティアですからお世話はかけません」と断ったほど。
よしきちゃん発見の尾畠春夫(78)さん
「ボランティアはすべて自己責任」
「人を頼ったり物をもらったりしちゃいけない」控えめに言っても聖人 pic.twitter.com/Spnf8lth01
— たけp (@pine9696) August 15, 2018
「自己完結するのが真のボランティアだ」というのが信条で、助ける相手側に迷惑をかけないのを鉄則にしています。
まとめ
尾畠春夫さんの語る一言一言が重みを感じますね。
戦前生まれの方は厳しい幼少期を過ごした方が多く、精神力や胆力が今の若い世代とはレベルが違います。
自分の意志を貫きながらも、どこか自由に生き抜く姿勢は見習いたいところばかりです。